満蒙開拓平和記念館

1931年から1945年まで存在した欺瞞の国

満州国国旗
満州国国旗(五族協和/王道楽土を表す)

日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)の勝利が日本帝国の運命を決定づけていく。日清戦争では下関条約で、李氏朝鮮の清から独立・台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲を獲得し、日露戦争ではポーツマス条約で、東清鉄道(ロシア帝国が満州に建設した鉄道)と三国干渉で失った遼東半島の割譲を再び獲得する。満州を日本の植民地にしようとする考えから1906年南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立される。「満州経営策梗概」(1904年満州創立委員会・児玉源太郎大日本帝国陸軍総参謀長の意見書)には、すでに「移民の奨励」が記されている。終戦(1945年)まで関東軍(大日本帝国陸軍に属し満州の防備と満鉄沿線を保護するために創設された)と満鉄とで独自の移民政策を繰り返すが思惑とは程遠い結果に終わっている。満州事変(1931年)までに、満州移住者数の内農業移住者は1.000人に足りず一般の移住者は230.000人と記録されている。満州移民政策が進展しない中1929年のアメリカの金融恐慌に始まる世界恐慌の余波・凶作による農業恐慌・アメリカやブラジルの移民制限等で日本の農村では不満が蓄積されていた。満州においては日ソ関係が一層険悪になり衝突に備え国境への戦闘予備軍を大量に配置する必要に迫られていた。国内での経済的理由と満州での軍事的理由で満州への移民が一気に勢いづく。差し迫るソ連と中国の脅威が迫る中、中国から満州を切り離す政策「満蒙分離政策」を打ち出していた日本は、辛亥革命(1911年)で退位していた愛新覚羅溥儀を摂政として「満州国」を1932年に建国、その年の10月「第一次武装移民団」423人を満州国に送り、終戦までに開拓移民団をソ連国境を中心に約27万人を送り込んだ結果、ソ連の参戦により現在まで尾を引く大惨劇を引き起こすのである。

*満州国国旗に込められた5族協和の5族とは、大和民族(日本)・満州民族・朝鮮民族・漢民族・モンゴル民族を意味し、王道楽土とは「人徳を基に正しい道によって治められる安楽な土地」と解される。

長野県の関係

岡谷郷開拓団
内原訓練所の義勇軍
高社郷開拓団

様々な形で満州に渡った日本人の居留民は、敗戦当時で100万人を超すといわれ、その中で開拓関係者は約27万人と推定されている。満州開拓のための移民策として、2つの施策がとられた。「分村移民」と「満蒙開拓青少年義勇軍」であった。「分村移民」というのは、日本内地の村をそのまま満州に移住させるさせることで、定着率を高めるとともに大量に移住させることができるという利点があった。「分村移民」の第1号は長野県南佐久郡大日向村(現在は南佐久郡佐久町)である。村の総戸数400戸の半数を移住させる計画であり、昭和13年(1938年)2月11日に先遣隊37人が吉林省に入植し、終戦時には189戸、766人の村が完成していた。「分村移民」は国の大々的な宣伝や国内事情から急速に広まり、全国から最後の第14次までに422団約22万人が満州に渡ったのである。村の苦しい生活を救うため送り出しには国から補助金が支給され、繰り出される強烈な国策に村も村民も選択の余地がなく渡満を決断していく。
「満州開拓青少年義勇軍」とは、全国の満15歳以上18歳の農家子弟約150万のうち郷土を離れても支障のない者約70万を対象に募集された。昭和13年(1938年)から終戦の昭和20年(1945年)まで募集は実施され総数約10万人が送り出された。長野県は送り出し義勇兵の数が、昭和13年(1938年)から昭和20年(1945年)の間、昭和18年(1943年)に広島県にぬかれただけで常に一番を誇っていた。長野県の中でも、下伊那地方の送り出しが群を抜いていた。全国47都道府県から開拓団及び義勇隊が送出され、1番が長野県、山形県、熊本県、福島県、5番が新潟県と続き、この5県で送出総数の約3割の送出数にもなる。
しかし、「義勇軍」の募集では、開拓地での治安と防衛に関する目的は隠され、未開の地での独立した農業経営のみが謳われていた。終戦時満蒙開拓団の総人数は約27万人から32万人と言われているがその内約8万人が引き揚げの途中で死亡している。戦死・自決・餓死・病死が原因である。ソ連軍からの背走の途中銃殺される者・集団自決・乳飲み子や幼い子供(集団を守るため泣き叫ぶ乳飲み子や幼い兄弟を手にかける)・土地を奪った農民に襲われる者が大半であったが、記録では逃げ延びてから日本への船に乗るまでの避難所での餓死や病死者の数が半数以上と記されている。昭和の悲しい歴史に長野県も深くかかわっている。

*入植した土地では、日本で住んでいた土地の名前がつけられることが多かった。上記岡谷郷は岡谷地方、高社郷は飯山や中野からの入植者を表す。

*内原訓練所―満蒙開拓青少年義勇軍の基礎的な訓練所。1938年茨城県の現水戸市に設立、終戦の年まで8万6530人の15歳から19歳の青少年がここから満州に駆り出され、現地で農作業や兵隊の役割を担った。

満蒙開拓の歴史を残す満蒙開拓平和記念館

平和記念館での講話風景
満蒙開拓平和記念館
館内の展示

満蒙開拓平和記念館は2013年長野県阿智村に開設されました。満蒙開拓に関する資料を公開する日本唯一の記念館で、なぜ満蒙開拓移民が始まったのか写真と映像を使って戦前から戦後まで分かり易く丁寧に解説されいます。満州での体験を語る「語り部定期公演」もに開催されていましたが、体験者の減少と高齢化で継続が困難となり2025年より語り部さん以外にも開拓団員の親族や中国帰国者2・3世、満蒙開拓の歴史に関わった関係者を語り部として招く計画。特別展も企画されており、2018年には特別展「朝鮮人移民を知っていますか」が開催されました。1910年の日韓併合条約により日本の植民地化されていた朝鮮からも多くの移民が満州へ渡り、渡満した日本人と同様に、農地を奪われた農民との衝突は頻繁に起きていた。1931年に起きた「万宝山事件」は、満州事変の序章への事件として記録されている。1955年に中国吉林省延辺の朝鮮族自治州(2021年人口約170万人)になった地は古代高句麗・渤海の故地であり元々朝鮮人が多く住んでいた土地であるが、満蒙開拓平和記念館の資料には、「1645年6月満州にいた朝鮮人は216万人といわれています。開拓団員と呼ばれた人たちの正確な人数はわかっていません。1953年までに100万人前後が朝鮮半島へ帰還、112万人が残留したとされます。長い中国での生活で、帰るべき故郷をなくしてしまった人、引揚げる手段がなかった人、日本軍に徴兵された子どもを中国で待ち続けた人など、さまざまな理由から帰る機会を逃してしまったのです。」とある。渡満した日本人と同様に朝鮮人も日本の国策に翻弄されていた事実があったことを、またこの事実が現代にも影を落としていることを記念館は記録している。

*万宝山事件・・1931年7月日本は中国長春北西の万宝山に朝鮮人200人~300人を移住させる。中国側がこれを日本の侵略行為として反発し衝突。日本軍の大尉が殺害されたことで同年9月満州事変が勃発する。   

*朝鮮族・・日本の植民地支配を契機に満州に移住した朝鮮人がルーツ。朝鮮系中国人。(ウイキペディアより)

一元化された全国開拓団データをサイトで公開

1950年外務省が都道府県からの情報をまとめた開拓団の基礎的データを作成、「満蒙開拓史」(1966年満蒙開拓史刊行会)と「満州1945」(1986年木島三千男著)はその調査をもと刊行されている  が、時の事情からデータの内容が未完の部分があった。満蒙開拓平和記念館では開館当初から開拓団についての問い合わせがあり、所蔵資料から調査し情報提供する中でデーターの一元化の必要性を痛感、すでに公開の資料と全国から寄せられた資料をもとにデーターを作成し開館11年に合わせ2024年4月から公開をはじめています。全国1025団体の団員数や帰国者、死者数など多数項目にわたり閲覧可能です。

信濃毎日新聞社から、連載の満蒙開拓団の歴史をまとめた本「鍬を握る」が発行されました。2024年1月から64回連載された内容を単行本にした書籍です。帰国者の証言を中心に、残留日本人や帰国2世の今なお抱える問題を報告しています。

信濃毎日新聞「鍬を握る」2024年11月発行